日本の伝統文化茶道について解説します

三千家とは④~裏千家

8kon.jpg裏千家(うらせんけ)は、茶道流派の一つです。

茶道人口の半分以上は裏千家と言われ、茶道会には数多くの流派がありますが、最大規模の流派になります。宗家は京都市上京区にあり、表千家の宗家と隣接しています。その茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の象徴的存在です。

そして裏千家の名称は、表千家(不審菴)に対し、今日庵が通りからみて裏にあるという意味からきています。


三千家の中で裏千家の流儀を特徴づけるのは11代玄々斎以来特に顕著な「積極性」である。玄々斎による大炉・茶箱点・立礼式や、13代円能斎による盆略点に代表されるように、新しい点前を作ることに対して他の二家より積極的であることが裏千家の大きな特徴なのです。

そして積極的であることが裏千家が主流になる大きなきっかけとなるのです。

それでは以下、簡単に裏千家の歴史を紹介します。

まず裏千家の成り立ちですが、千家3代宗旦は、不審菴を三男江岑宗左に譲り、敷地内に新たに茶室を建てて隠居し、四男仙叟宗室と共に移り住んだ。このときの茶室は今日庵(一畳台目)、利休四畳半を再現した又隠、寒雲亭(八畳)であり、これらがすべて宗室に譲られたことにより裏千家が成立したのです。

そして4代仙叟宗室は寛永19年(1642年)に加賀前田家の当時すでに隠居であった前田利常に仕官し、二百石と小松城三の丸の屋敷を与えられました。万治元年(1658年)に前田利常と元伯宗旦が相次いで没すると、裏千家の4代を継承し、寛文11年(1671年)に前田綱紀に茶頭として仕官して百五十石と金沢城下の味噌蔵町の屋敷を与えられまし

仙叟宗室の没後すぐに5代常叟宗室が加賀藩に仕官したが、ほどなく辞して伊予松山藩久松家に仕官する。以降、幕末に至るまで久松家に仕官しながら前田家とも交流を続けることになるのです。その後8代一燈宗室のときに徳島藩蜂須賀家にも出向いている。

8代又玄斎一燈は兄の表千家7代如心斎と共に千家の中興とされています。

彼らは茶の湯が大衆化していく中で、新たな稽古の方法として七事式を制定するなどして千家の茶道を広めることに成功しました。今日、三千家が茶道の代表格として語られるのは、流祖である千利休の高名だけでなく、この時期に広く各地の町人富裕層に普及したことも大きな要因となっていることを覚えておきましょう。

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