茶道の歴史
茶道の歴史その①
初めて日本にお茶がもたらされたのは、遣唐使として唐に留学した僧侶たちが持ち帰ったのが始まりとされます。しかし、当時は根付かず茶はすぐにすたれてしまいます。
なので実際に茶が伝来したといえるのは鎌倉時代かもしれません。鎌倉時代の僧「栄西」が臨済禅とともに抹茶法を日本に伝えたのでです。当時、抹茶は僧侶の間で睡魔を取り除く薬として広まりました。
そしてそれから時代が下がって南北朝のころには、一定の場所に集まって茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である闘茶が流行するようになったのです。
茶道の歴史その②
茶道は、室町中期になると、貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、会所で催されていた茶会が書院の広間で行われるようになります。そして足利義満・足利義教の同朋衆の能阿弥(のうあみ)は書院茶の作法を完成させました。
能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光(むらたじゅこう)は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ、さらに大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から学んだ禅の精神を加味して、精神的・芸術的内容をもつ茶道を作ります。
つまり村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止(闘茶の禁止)し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いたのです。これがわび茶の源流と成っていくのです。
このことからも村田珠光が茶道に対して非常に大きな功績を残したといえるでしょう。
茶道の歴史その③
わび茶の源流をつくった村田珠光が他界したあと、武野紹鴎(たけのじょうおう)がその心を受け継ぎます。武野紹鴎は禅の奥義にも徹し、唐物の茶器のかわりに日常雑器を茶の湯に取り入れます。
そして「わび茶」を完成させ、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った「道」に高まっていくのです。
茶道の歴史その④
僧侶の村田珠光が内面的な心を追求したわび茶を始め、 その後、その心を受け継いだ武野紹鴎が禅の奥義にも徹し、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った「道」に高まります。茶道はその後、武野紹鴎の弟子の千利休(せんのりきゅう)によって安土桃山時代に完成されます。
利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいきます。
さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われます。
現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もあります。
茶道の歴史その⑤
茶道を大成させた千利休は秀吉の茶頭となり、天下の茶道指南となります。利休は紹鴎の侘び茶を更に発展させ、長次郎に手びねりの楽焼茶碗をつくらせ又、茶室の躙口(にじりぐち)を考案したが、秀吉の逆鱗に触れ天正19年(1591年)切腹を命じられます。
千利休の死後、二代少庵宗淳(しょうあんそうじゅん)を経て、千利休の孫になる三代元伯宗旦(げんぱくそうたん)の隠居とともに、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)がそれぞれ、官休庵、不審庵、今日庵として千利休以来の道統を継ぎ、官休庵は武者小路千家、不審庵は表千家、今日庵は裏千家の三千家に分かれました。
その後、遠州流・石州流を始めとした様々な流派も生まれ、今日に至っています。
Page:
1
<< 0098)茶道基本情報 <<
>> 0100)茶道の点前 >>